多発性骨髄腫ブログ【最後の日】高齢者の母(70代)の症状

先月、多発性骨髄腫を患っていた母が逝きました。

危篤の知らせを受けてから亡くなるまでの症状と、4日間の出来事を記録しました。

水曜日:意識がなくなった

水曜日の早朝、父から電話がありました。

「今病院。

お母さん、意識がなくなった。

N先生(母の主治医)が、もう目を覚まさないだろうって。

いつもの点滴のために、昨日から入院してたんだけど

明け方になって意識がないって、看護師さんが気づいてくれて。

もう、あかんかも。

この状態がいつまで続くかも、わからへんけど。」

 

父からの電話の様子では、今すぐ母が息を引き取るかどうかは

わからないようでした。

とにかくわかっていることは

  • 母の意識がなくなった。
  • 今日中か、数日中かはわからないけど、とうとう逝ってしまう。

ということ。

とりあえず、子供達が学校を休むべきなのか悩んで

息子たちには家の鍵を持たせて、学校に行かせました。

夫にも仕事に行ってもらいました。

 

私がいつ帰宅できるかわからないので、小学生の娘は学校を休ませて、病院に連れて行きました。

水曜日の昼間

母の入院している病院は、私の自宅から車で1時間半のところにあります。

 

病院につくと、母の兄弟が全員病室にいました。

母の呼吸は何度も止まり、その度に病室にいるみんなで声をかけ

母は聞こえているのかいないのか、思い出したように息をします。

 

手は青白かったですが、足は赤黒く、このまま腐っていくように見えました。

頭や額は汗ばんでいます。

あの時の母の状態をN先生に尋ねると

  • 血液を優先して脳に運んでいる状態
  • 血液を脳と心臓で優先的に使うため、末端(足)の血行は悪い

とのことでした。

看護師さんからも、足を優しくマッサージすると、色が良くなるというので

姉と交代で母の足をマッサージしました。

強く揉むと、皮膚が破れるので、弱く握る程度にマッサージ。

 

夕方になると、私の夫や従姉妹(母の姪っ子たち)が駆けつけてくれて、何度も話しかけてくれました。

水曜日は1日中ずっと、母の症状は変わらなかったので、夜7時に帰宅することにしました。

 

水曜日の夜

私たちが病院を出て1時間もしないうちに、母の意識が戻りました。

ここからは、その場にいた父と姉の証言です。

 

突然母が動き出し、手足を大きく力強く動かしました。

痛みが怖くて、あまり体を動かすことができなかった母が、突然暴れ出した(?)ので

ベットから落ちないように支えようとした父は、母にパンチをくらいました。

そして母の第一声は

「あー、しんど!」

だったそうです。

 

そして

「私の葬式はもう終わったの?」

「天国に行けなかったかぁ。」

と話していたそうです。

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木曜日:食べて磨いて排便

翌日の朝、再び私が病院に到着すると、ベットの上でしたが、母は目を開けていました。

体を起こしたいと言って、看護師さんに手伝ってもらい

車椅子に座りました。

 

前日、母が手足を大きく力強く動かした理由を、N先生に尋ねたところ

「呼吸の回数が減って、脳が酸欠になり、脳細胞に影響が出た。

脳からの信号が正常ではなくなり、手足が大きく動いた。

小刻みじゃなくても、手足の動きは痙攣の類だったと思う。」

という風に教えていただきました。

 

自分の意思で手足を動かしたわけでは、なかったんですね。

 

母は車椅子に座ったまま

水を飲み

病院の給食で出た缶詰みかんを食べ

スイカが欲しいと要求し

力強く歯磨きをし

 

そして、ひたすらベットに戻るのを嫌がりました。

ベットに横になると、考え事ができなくなるから嫌だというのです。

 

私は夕方、子供たちを迎えに自宅に戻り、今度は子供たちを連れて再び病院に戻りました。

 

母は朝から何度も、トイレに行きたいと言ったのですが

看護師さんからオムツにするように言われていました。

 

それでも「自分でできます!」と言って(できません。2人がかりで介助しました。)

ポータブルトイレで排便をしました。

 

多発性骨髄腫を克服できるわけではなく、あとは天国に行くだけだと誰もが思っていましたが

意識不明からの、飲む・食べる・歯磨き・排便をしている母を見ると

もしかしたら、持ち直すのか?とも思えました。

 

そして、夜になり、私は子供たちを連れて病院を後にしました。

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金曜日:スイカを食べる

金曜日も意識はあった母。

前日からの要望により、姉がスイカを買ってきました。

 

普通に美味しいスイカだったのですが、母は

「美味しくない」

と言っていました。

 

水は幼児用のマグマグを使って、なんとか自分で飲んでいました。

 

そしてしきりに、自分がどこにいるのか確かめようとするのです。

「病院にいるよ。」と伝えても、

「そうじゃなくて。部屋のどこのいるの?」と言うのです。

 

病室のどこに、どの向きでベットがあって、自分がどっちを向いているのかわからなくて

不安になったようです。

 

姉が病室の見取り図を書いて、

「今、お母さんは、この位置にいるよ!」と伝えると

ほんの少し納得したようでした。

土曜日:再び意識を失う

明け方、母は、また意識を失いました。

と言うより、目を覚ましませんでした。

前回と違うところは、手や足が動くこと。

38度くらいの発熱があること。

 

手や足は動きますが、決して意識があるから動いているわけではなく

前回呼吸が減った時の後遺症で、痙攣しているだけなのです。

 

それと、どんな体制にしても痛みがあるし苦しいため

足をベットの柵に突っ張ったりしました。

 

どうも痛くて苦しいように見えたので、看護師さんに言って、痛み止めを母の口に入れてもらいました。

点滴ではなく、口の中で溶けて吸収できるタイプの痛み止めです。

 

歯ぎしりをするほど苦しんでいた母の口に薬を入れるのは、看護師さんも怪我をする恐れもあり

とても難しそうでした。

 

痛み止めを飲ませた後も、母は相変わらず苦しそうで

以前から使っていた経皮吸収型の痛み止めも、少し増やしてもらいましたが

むやみに痛み止めを増やすと、そのまま帰ってこなくなるかもしれないので

慎重にやってもらいました。

 

呼吸数は相変わらず少なくて、時々止まります。

夜になり、少しずつ心拍数が上がりました。

心拍数が上がったことは気になりましたが、看護師さんは何も言いませんでした。

 

また明日ね。と言って病院を出て

車で自宅に向かう途中、父から電話がありました。

 

母が息を引き取りました。

土曜日の深夜

自分と家族の着替えを用意し、実家に向かうと、母が自宅のベッドに寝かせてもらっていました。

すでに葬儀会社の人がいて、葬儀について話を詰めていました。

 

父は、思考がまとまらず、何も決められなくなっていたので

姉と私で

  • 香典返しの品
  • 葬儀の飾り付け
  • 遺影に使う写真の選定
  • 遺影の背景
  • 葬儀後のお弁当の数

などを決めました。

 

最後に

母に多発性骨髄腫が見つかった時、余命5年くらいと言われましたが

結局7年目まで生きることができました。

 

そして、ひどい骨粗鬆症になり、少しの衝撃で骨が折れる病気だと聞いていましたが

末期になってからの骨折はありませんでした。
(3年目にスポーツジムで、地味に骨折していました。)

母は骨に良さそうなサプリを飲んでいたからなのか、火葬後の骨は硬かったです。

 

末期になると、「大の男が耐えられないほどの痛み」と、どこかのサイトで見たのですが

最後の母の様子は、意識がないのに唸っていました。

よほど痛みが強かったのだと思います。

 

今やっと、母は痛みから解放されました。

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