先月、多発性骨髄腫を患っていた母が逝きました。
危篤の知らせを受けてから亡くなるまでの症状と、4日間の出来事を記録しました。
もくじ
水曜日:意識がなくなった
水曜日の早朝、父から電話がありました。
「今病院。
お母さん、意識がなくなった。
N先生(母の主治医)が、もう目を覚まさないだろうって。
いつもの点滴のために、昨日から入院してたんだけど
明け方になって意識がないって、看護師さんが気づいてくれて。
もう、あかんかも。
この状態がいつまで続くかも、わからへんけど。」
父からの電話の様子では、今すぐ母が息を引き取るかどうかは
わからないようでした。
とにかくわかっていることは
- 母の意識がなくなった。
- 今日中か、数日中かはわからないけど、とうとう逝ってしまう。
ということ。
とりあえず、子供達が学校を休むべきなのか悩んで
息子たちには家の鍵を持たせて、学校に行かせました。
夫にも仕事に行ってもらいました。
私がいつ帰宅できるかわからないので、小学生の娘は学校を休ませて、病院に連れて行きました。
水曜日の昼間
母の入院している病院は、私の自宅から車で1時間半のところにあります。
病院につくと、母の兄弟が全員病室にいました。
母の呼吸は何度も止まり、その度に病室にいるみんなで声をかけ
母は聞こえているのかいないのか、思い出したように息をします。
手は青白かったですが、足は赤黒く、このまま腐っていくように見えました。
頭や額は汗ばんでいます。
あの時の母の状態をN先生に尋ねると
- 血液を優先して脳に運んでいる状態
- 血液を脳と心臓で優先的に使うため、末端(足)の血行は悪い
とのことでした。
看護師さんからも、足を優しくマッサージすると、色が良くなるというので
姉と交代で母の足をマッサージしました。
強く揉むと、皮膚が破れるので、弱く握る程度にマッサージ。
夕方になると、私の夫や従姉妹(母の姪っ子たち)が駆けつけてくれて、何度も話しかけてくれました。
水曜日は1日中ずっと、母の症状は変わらなかったので、夜7時に帰宅することにしました。
水曜日の夜
私たちが病院を出て1時間もしないうちに、母の意識が戻りました。
ここからは、その場にいた父と姉の証言です。
突然母が動き出し、手足を大きく力強く動かしました。
痛みが怖くて、あまり体を動かすことができなかった母が、突然暴れ出した(?)ので
ベットから落ちないように支えようとした父は、母にパンチをくらいました。
そして母の第一声は
「あー、しんど!」
だったそうです。
そして
「私の葬式はもう終わったの?」
「天国に行けなかったかぁ。」
と話していたそうです。
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木曜日:食べて磨いて排便
翌日の朝、再び私が病院に到着すると、ベットの上でしたが、母は目を開けていました。
体を起こしたいと言って、看護師さんに手伝ってもらい
車椅子に座りました。
前日、母が手足を大きく力強く動かした理由を、N先生に尋ねたところ
「呼吸の回数が減って、脳が酸欠になり、脳細胞に影響が出た。
脳からの信号が正常ではなくなり、手足が大きく動いた。
小刻みじゃなくても、手足の動きは痙攣の類だったと思う。」
という風に教えていただきました。
自分の意思で手足を動かしたわけでは、なかったんですね。
母は車椅子に座ったまま
水を飲み
病院の給食で出た缶詰みかんを食べ
スイカが欲しいと要求し
力強く歯磨きをし
そして、ひたすらベットに戻るのを嫌がりました。
ベットに横になると、考え事ができなくなるから嫌だというのです。
私は夕方、子供たちを迎えに自宅に戻り、今度は子供たちを連れて再び病院に戻りました。
母は朝から何度も、トイレに行きたいと言ったのですが
看護師さんからオムツにするように言われていました。
それでも「自分でできます!」と言って(できません。2人がかりで介助しました。)
ポータブルトイレで排便をしました。
多発性骨髄腫を克服できるわけではなく、あとは天国に行くだけだと誰もが思っていましたが
意識不明からの、飲む・食べる・歯磨き・排便をしている母を見ると
もしかしたら、持ち直すのか?とも思えました。
そして、夜になり、私は子供たちを連れて病院を後にしました。
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金曜日:スイカを食べる
金曜日も意識はあった母。
前日からの要望により、姉がスイカを買ってきました。
普通に美味しいスイカだったのですが、母は
「美味しくない」
と言っていました。
水は幼児用のマグマグを使って、なんとか自分で飲んでいました。
そしてしきりに、自分がどこにいるのか確かめようとするのです。
「病院にいるよ。」と伝えても、
「そうじゃなくて。部屋のどこのいるの?」と言うのです。
病室のどこに、どの向きでベットがあって、自分がどっちを向いているのかわからなくて
不安になったようです。
姉が病室の見取り図を書いて、
「今、お母さんは、この位置にいるよ!」と伝えると
ほんの少し納得したようでした。
土曜日:再び意識を失う
明け方、母は、また意識を失いました。
と言うより、目を覚ましませんでした。
前回と違うところは、手や足が動くこと。
38度くらいの発熱があること。
手や足は動きますが、決して意識があるから動いているわけではなく
前回呼吸が減った時の後遺症で、痙攣しているだけなのです。
それと、どんな体制にしても痛みがあるし苦しいため
足をベットの柵に突っ張ったりしました。
どうも痛くて苦しいように見えたので、看護師さんに言って、痛み止めを母の口に入れてもらいました。
点滴ではなく、口の中で溶けて吸収できるタイプの痛み止めです。
歯ぎしりをするほど苦しんでいた母の口に薬を入れるのは、看護師さんも怪我をする恐れもあり
とても難しそうでした。
痛み止めを飲ませた後も、母は相変わらず苦しそうで
以前から使っていた経皮吸収型の痛み止めも、少し増やしてもらいましたが
むやみに痛み止めを増やすと、そのまま帰ってこなくなるかもしれないので
慎重にやってもらいました。
呼吸数は相変わらず少なくて、時々止まります。
夜になり、少しずつ心拍数が上がりました。
心拍数が上がったことは気になりましたが、看護師さんは何も言いませんでした。
また明日ね。と言って病院を出て
車で自宅に向かう途中、父から電話がありました。
母が息を引き取りました。
土曜日の深夜
自分と家族の着替えを用意し、実家に向かうと、母が自宅のベッドに寝かせてもらっていました。
すでに葬儀会社の人がいて、葬儀について話を詰めていました。
父は、思考がまとまらず、何も決められなくなっていたので
姉と私で
- 香典返しの品
- 葬儀の飾り付け
- 遺影に使う写真の選定
- 遺影の背景
- 葬儀後のお弁当の数
などを決めました。
最後に
母に多発性骨髄腫が見つかった時、余命5年くらいと言われましたが
結局7年目まで生きることができました。
そして、ひどい骨粗鬆症になり、少しの衝撃で骨が折れる病気だと聞いていましたが
末期になってからの骨折はありませんでした。
(3年目にスポーツジムで、地味に骨折していました。)
母は骨に良さそうなサプリを飲んでいたからなのか、火葬後の骨は硬かったです。
末期になると、「大の男が耐えられないほどの痛み」と、どこかのサイトで見たのですが
最後の母の様子は、意識がないのに唸っていました。
よほど痛みが強かったのだと思います。
今やっと、母は痛みから解放されました。
母が多発性骨髄腫の診断を受けた時と、予後・末期の症状の記録