「天才を育てた女房」に登場した笹野高史さんが演じた阪田三吉棋士。
実在の人物です!
しかも阪田三吉棋士は天才棋士で、北条秀司原作による『王将』というタイトルの戯曲や映画、さらに歌のモデルになった人なのです。
では阪田三吉棋士がどんな人だったのでしょう?
もくじ
阪田三吉棋士の生まれと育ち
阪田三吉棋士の生まれと育ちを簡単にまとめます。
- 名前・・・阪田三吉(さかた さんきち)
- 生年月日・・・1871年7月1日
- 没年月日・・・1946年7月23日(75歳没)
- 出身地・・・堺県大鳥郡舳松村字塩穴
- 亡くなった原因・・・傷んだクジラの肉で食あたり
坂田三吉さんは明治の生まれ。
家は貧しくて、子供のことに丁稚奉公に出されました。
でも将棋が好きで好きで、他の人の将棋を見ていて、おぶっていた奉公先の子供に怪我をさせてしまい、首になったことがあるそうです。
早くに奉公に出た坂田三吉さんは、文字を学んでなかったので、殆ど文字を読めなかったそうです。
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坂三吉棋士の将棋
坂田三吉さんは、子供の頃に覚えた将棋で、賭け将棋をしてお金を稼いでいました。
しかし22歳の時に、当時四段だった関根13世名人に負けてしまい、(当時四段)
プロ棋士になりたい!と強く思いました。
その後、坂田三吉さんは、関根棋士を目標に、ひたすら精進したのです。
1910年(39歳の時)、坂田三吉さんは、自分のことを
「ボクって七段くらいだと思うから、今日から阪田七段ね!」
と勝手に七段を名乗ってしまいます。
でも、「異議あり!」と勝負を挑んできた人全員に勝ったというので、やっぱり七段くらいだったのでしょうか…?
1913年4月(41歳の時)、坂田三吉さんは、東京にて・・・
因縁の(憧れの?)関根棋士(その時はもう八段になっていた)と勝負します。
結果は坂田三吉棋士の勝利!
この勝負以降、「自称七段」じゃなくて、「阪田七段」として認められたといいます。
この時の勝負で「銀が泣いている」という名台詞が生まれたそうです。
坂田三吉棋士が「銀が泣いている」と言った理由は、自分の銀を犠牲にして勝とうとしているのに、関根棋士にその作戦を読まれて、関根棋士が銀を取ってくれなかったから。
銀が「自分が犠牲になって、チームの勝利を得ようとしているのに、なぜ取ってくれないんだぁぁぁぁぁぁぁぁ(p>□<q*)」的な泣いている、というわけです。
1921年5月(49歳の時)、阪田棋士は失明の恐れのあるような、眼病を患っていました。
その後、報酬のことで揉めたりして、かなり大変だったみたいです。
将棋界で孤立してしまい、とりあえず引退の状態に。
1937年(66歳の時)、坂田三吉さんは将棋界に復帰しましたが、連敗して自ら引退を選びました。
引退して、大阪市東住吉区田辺にある自宅で完全に隠居生活をしていた坂田三吉さん。
将棋の先生しませんか?という声掛けにも応じず、独りで将棋をさしていたそうです。
1946年7月23日(75歳の時)、家族のするの間に食べた、鯨の肉が原因で亡くなりました。
鯨の肉、少し傷んでたそうです。
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坂田三吉ってどんな性格?
坂田三吉さんの若い頃を語る人はいませんが、晩年の阪田棋士のことは、褒める人しかいないくらい、本当に良い人だったようです。
礼節をわきまえて、とても丁寧な人。
お辞儀がとっても長い。
超がつくほど純粋で、素直。
自分から七段を名乗ったりするなんて、ちょっと強引な自信過剰気味な人かと思ったら、全然違うんですね!
そして坂田三吉さんをモデルに、映画「王将」が作られました。
映画での坂田三吉さんは、乱暴者というか無法者のようなイメージを持たれますが、本物の坂田三吉さんは礼儀正しくて映画とは正反対のタイプだったそうです。