6年前に多発性骨髄腫の診断を受けた母の
予後と末期症状と、どんな生活をしているのかについてお話します。
もくじ
多発性骨髄腫の末期症状と診断された母の生活
多発性骨髄腫と診断されて、1年で抗がん剤治療をやめた母は、その後3年近くかけて徐々に体に不調があらわれました。
【予後】4年目の終わりころの症状と生活
4年目の1年間は、料理をすることも多かったのですが
自分たち夫婦の食事の準備を少しずつするくらいでした。
毎年盆正月には、子供たちを連れて夕食を共にしていたのですが、体がしんどくて一緒に食事はできないと言うようになりました。
そして4年目の終わりころ、とうとう腰を中心とした痛みとだるさで、動けなくなったのです。
同居する父からどうしたら良いのかと電話をもらった私は、近くのホスピスがある病院を勧めました。
【予後】5年目の1年間の症状と生活
限界まで痛みを我慢していた母は、すでに痛みのために
普通の乗用車に乗ることはできませんでした。
だから、救急車で病院まで連れて行ってもらうことになったのです。
でも、母があまりに痛がるので、救急隊員三人がかりでも
母を、なかなかストレッチャーに乗せることもできず、ものすごく時間をかけて
病院まで運びました。
しばらく入院して痛みの緩和ケアを受けた母は、自宅に帰って来て緩和ケアを続けました。
既に多発性骨髄腫の治療はやめていたので、どうやって楽に最後まで過ごせるかを優先したのです。
5年目の母の症状は、常時痛みと苦しみを感じるようで
いつも眉間にシワがより、かなり辛そうでした。
基本的にベッドに横になっているか、車いすでの移動。
自宅の中でも、全て車いすで移動していました。
時々電話をかけてきては、孫(私の子供たち)に会えるのを楽しみにしていました。
調子が良ければ、自分でトイレに行くこともできましたが、カテーテルをつけていることも多かったです。
入浴は訪問入浴サービスを利用。
ベッドから起き上がるのも、ベッドから車いすに移るのも辛そうで、何をするにも痛そうでした。
そして5年目の1年間は、入退院を繰り返しましたが基本的に自宅で過ごす日の方が多かったです。(本人の希望で、無理やり退院していました。)
入院の理由は膀胱に細菌性の炎症が起きているからということ。
他は、症状が悪化して腰を中心に体中に痛みがあり、入院して他の薬で症状を落ち着かせるための入院でした。
食事はできましたが、かなり食欲が落ち、ほんの少ししか食べれなかった母は、骨と皮だけのように痩せていきました。
喋るのも辛いらしく、息を切らしながら会話。
肌の乾燥が激しく、日焼けの後のように
薄い皮膚がボロボロとはがれていきました。
長時間お見舞いにお邪魔すると、体がしんどいと言って嫌がるので、お見舞いは30分以内で切り上げます。
【末期】6年目の症状と生活
6年目に入り、母はやせ細って、どんどん小さくなりました。
基本的に自宅にいます。
息が切れて会話もし辛いので、電話もかかってこなくなりました。
お見舞いや掃除に行くと(私は掃除が得意なので、掃除のために行くこともあります。)
声を出すのもしんどそうです。
キレイになったキッチンを見る元気もありません。
母は、「最近貧血で、血を入れてもらったんだけど、なかなか楽にならない。」と言っています。
そして、お見舞いに行っても、すぐに眠ってしまうのです。
主治医の先生は、「もう時間が少ない。」とおっしゃっていました。
いわゆる「末期」です。
抗がん剤の治療も受けず、民間治療と緩和ケアだけだった母の病気は
家族の誰も奇跡を信じていなかったと思いますが
母はいつも「もう少し良くなったら〇〇する。」と言っていました。
以前、多発性骨髄腫の末期症状を調べた時
- 体中の骨が折れる。
- 体中痛くて耐えられない。
と書かれていたので、母が自宅で生活することなど無理だと思っていました。
でも、緩和ケアがうまくいっているのか、なんとか自宅で生活しています。
多発性骨髄腫患者の家族としては、痛みに耐える姿を見るより
すぐ居眠りしている姿を見る方が良いですし
もし、残りの時間がわずかだとしても、眠くなってお別れするなら仕方ないと思います。
(まだ母は生きていますが)
抗がん剤で治療していたら、もっと長く生きていたのか…。
それとも抗がん剤をやめて良かったのか、母に聞くと泣かれそうなので、聞けませんでした。
【末期】7年目の症状と生活
7年目に入ると、母はいつ最後を迎えるのかわからない状態になりました。
それでも5ヶ月は生きて、6月に亡くなりました。
痛みで「早く天国に行きたい。」と言うようになっていた母は
6月に輸血のために入院し、容体が悪化しました。
最初に意識がなくなり
呼吸の回数が減りましたが、一度、目を醒ましました。
主治医によると「痛みのために、一時的に目が覚めたのかもしれない。」とのこと。
翌日、また意識を失いました。
一旦、呼吸回数が減り
その後意識がないにも関わらず、母は痛みや苦しみのため唸り声をあげ、呼吸回数は増えました。
その後、脈が増え、血中酸素濃度が減り、血圧が下がり、亡くなりました。
やっと、痛みや苦しみから解放されたのだと思います。
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さいごに
一度は意識が戻らないと言われた母は、亡くなる前日まで
食事をし、自分で簡易トイレを使って排便をしました。
多発性骨髄腫は、骨粗鬆症になり、骨がもろくなるので
もし心臓マッサージをすると、肋骨が粉々になるかもしれません。
だから、心臓が止まっても、胸骨圧迫はしないと決めていました。
これ以上生きていても苦しみが続くだけなので、延命治療はしないことを家族と主治医で決めていました。
時々無呼吸状態になるので、その度に家族が「息をしてー」と話しかけていましたが
お見舞いに来る誰も「頑張って」とは言いませんでした。
大の男でも痛みに耐えられないと言われる多発性骨髄腫という病気。
4年目まで病院で積極的に治療をしなかった母は、最初の診断から6年半生きました。
もし、抗がん剤など積極的に治療していたら、どんな結果だったのでしょう。
思うことはたくさんありますが、母は痛みや苦しみから解放されたので
「おめでとう」なのかもしれません。
母の場合の初期症状と診断のきっかけと最後の日の記録です。