大河ドラマ『おんな城主直虎』で、瀬戸方久(せとほうきゅう)が城主を務めていた堀川城が、大沢基胤(嶋田久作さん)に乗っ取られてしまいました。
方久をはじめ、気賀の民は家康に助けを求めますが、家康勢は助けるどころか城にいた人たち全員を、堀川城もろとも葬ろうとします。
衝撃的な展開ですが、史実ではどうだったのでしょう?
ドラマと史実を比較してみました。
もくじ
気賀の堀川城が残虐に攻め落とされたのは本当?
瀬戸方久(せとほうきゅう)が治めたと言われる堀川城の場所は、浜松市北区細江町気賀5261。
大河ドラマ『おんな城主直虎』の中では、浜名湖に建つ城ですが、今城跡として残っている石碑は、浜名湖に注ぐ都田川の近くにあります。
史実では、浜名湖の満潮時に、道が塞がったというので、ドラマほどではないですが、水に浮かぶ城だったのでしょうか。
現在は堀川城跡という石碑は畑の中の道沿いにぽつんとあるので、近くに行った時は見学してみて下さいね。
堀川城は、今川義元とその家臣と村人が築いた城(砦的な城)です。
今川の勢力が弱まり、徳川家康が堀川城を攻略した1569年(永禄12年)に
徳川勢によって一方的に攻め落とされたと言われています。
この時、堀川城にいた兵の半分は亡くなり、残りの半分は捕虜になったといいます。
しかし、生き残った捕虜も全員助からなかったそうです。
痛ましいことですが、女も子供も犠牲になったというのです。
それも都田川の堤で首を切られて…
なんと恐ろしい戦だったのかと、史実を聞くだけで寒気がします。
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【堀川城攻め】史実とドラマとの違いは?
大河ドラマ『おんな城主直虎』では、堀川城に閉じ込められて逃げ遅れた商人たち気賀の民共々、大沢の侍たちと区別されず討たれます。
徳川家康が助けに来てくれたと思った龍雲党の者たちも、逃げる間もなく次々と討たれます。
まるで地獄。
後に残るは、骸の山。
直虎が駆けつけたときには、生き残っていたのは龍雲丸だけだったのです。
ただしドラマでは、徳川家康は民は助けるつもりだったけど、家臣の酒井忠次が勝手に残虐な攻め方をした…ということにしています。
一方史実では、家康の指示だったとなっています。
そして約3,000人という多くの徳川軍が堀川城に攻め込みました。
この時、堀川城にいたのは2,000人と言われています。しかも民間人や女子供も含みます。
その差1,000人。
史実では、気賀の民が女も子供も、槍などを持って戦おうとしたというんです。驚きですよね。
ドラマでは「閉じ込められた民」でしたが、史実では「立て籠もった民」なんです。
ドラマでは、徳川勢が中村屋の船で満潮時に攻め込んでいましたが
史実では、徳川勢は干潮時に攻め込みました。3,000人の兵ですからね。船より歩きです!
史実での徳川家康は、相当残虐なことをしたみたいです。
良い人キャラの阿部サダヲさん演じる徳川家康が、同じことをやったら視聴者がドン引きですね。
代わりに悪者を引き受ける酒井忠次(みのすけさん)が、ちょっと気の毒…。