高嶋政宏大河『直虎』で本多忠勝(ほんだ ただかつ)役!史実と役どころをネタバレ

      2017/08/12

高嶋政宏さんが大河ドラマ『おんな城主直虎』に本多忠勝(ほんだ ただかつ)役で参戦です!

本多忠勝とはどんな人物だったのか、史実を元に、役どころを紹介します。

政次(高橋一生さん)の最後に余計な一言を言ったネタバレあり!

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高嶋政宏が演じる本多忠勝をざっくり言うと?

大柄でガッシリ体型の高嶋政宏さんが演じるのは、その外見にぴったりな本多忠勝。

この本多忠勝という人物をざっくり説明するなら

「THE 男」な武士 であり、「徳川四天王」で、槍の名手

 

本多忠勝(高嶋政宏さん)は、武士としてメチャクチャ強い人で、達人で、更に敵を尊重する美しい武士の心も持っていた「武士がなりたい武士」とでも言いましょうか。

「男が憧れる男」みたいな感じですね。

カッコイイ~

 

でも顔は怖いです。

目が離れてて、鼻がデカくて・・・・

↑良玄寺に納められている本多忠勝像

 

 

高嶋政宏が演じる本多忠勝の幼少期を史実から

1548年(天文17年)

三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市)で、徳川家康の生家・松平家の古くからの家臣本多の息子として忠勝(高嶋政宏さん)は生まれました。

父親は本多忠高、母親は小夜です。

幼名は 鍋之助

 

1549年(天文18年)

家康の父・ 松平広忠が家臣の岩松八弥に暗殺され、鍋之助の父・忠高が安祥城攻めで戦死。

まだ1歳の鍋之助は、父の弟で槍の名手の本多忠真(ほんだ ただざね)に育てられることになりました。

鍋之助は叔父さんから、読み書きから武士にとって必要なことは全て教わりました。

もちろん槍も叔父さんから習ったんでしょうね。

 

 

高嶋政宏が大河『直虎』で演じる本多忠勝の活躍を史実から

1560年(永禄3年)

鍋之助の初陣。

同時に元服して、鍋之助から忠勝(ただかつ)になりました。

※別名本多平八郎、本多平八。

 

忠勝(高嶋政宏さん)初陣は、桶狭間の戦いの前哨戦と言われる「鷲津砦での攻防戦」。

13歳と言っても、今で言う満12歳ですよ!

小学校6年生か、中学1年か?!っていう歳の少年が戦に出たわけです。

そして織田方の武将に討たれかけた忠勝(高嶋政宏さん)でしたが、間一髪のところで、叔父の忠真が槍を投げて助けてくれました。

めちゃくちゃ強い天才的な武将!というイメージの忠勝(高嶋政宏さん)ですが、少年だった頃は叔父さんに助けてもらっていたんですね。

 

そんな幼い少年イメージの忠勝(高嶋政宏さん)は1年でおしまい!

14歳の忠勝(高嶋政宏さん)は、叔父の忠真が敵を槍で刺しつつ

「首は忠勝が取っていいよ!」と言ってくれたのですが

「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」

 

と言って、敵陣に突っ込んで行って、自分の力だけで敵の首を持って帰ってきたと言うのです。

なんと男前に育ったものか、生まれつきもあるだろうけど、叔父さんの育て方も良かったんだろうなぁ。

 

1572年(元亀3年)

二俣城の戦いの前に武田軍の偵察をしに行った忠勝(高嶋政宏さん)は、武田軍とバッタリ!

家康に知らせに行く間もなく戦になったのですが、大久保忠佐と殿をつとめ、見事に家康を逃しました。

 

この年の12月にあった「三方ヶ原の戦い」でも大活躍の忠勝(高嶋政宏さん)でしたが、この戦で父のように育ててくれた叔父・本多忠真が亡くなりました。

それからも数々の戦に出て武功を上げ続け、家康から

「まことに我が家の良将なり」

と賞されたり

武田軍の小杉左近には

家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八

と言われたり、

「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」

という忠勝をネタに川柳も読まれました。

豊臣秀吉からは「東国市の勇士」と賞されていたそうです。

織田信長からも、忠勝(高嶋政宏さん)の勇士っぷりは賞賛されて、「法成寺」という刀をもらいました。

 

ドラマ中で直虎的には、忠勝は全く直虎の味方ではありません。

あくまでも家康の家臣ですからしょうがないですが、政次(高橋一生さん)が近藤に計られた時に、全く助けてくれず、「近藤の方が頼りになる」とか言う役なので、政次ファンから恨まれそうです。

 

因みに六角精児さん演じる本多正信とは親戚ですが、超仲が悪いです。

忠勝は正信のことを「ハラワタが腐ってる」とか悪口を言ってたと史実に残っているのです。

いつの時代も気が合わない人はいるものですね。(-_-;)

大河ドラマ『おんな城主直虎』では、このあたりまでのお話で終了かと思います。(直虎が本能寺の変の年に亡くなるので。)

 

でもついでなので、関ヶ原の戦いの後の忠勝のことも書いておきますね。

 

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直虎が亡くなってからの忠勝ストーリー(史実)

関ヶ原の戦いの後、伊勢国桑名藩の藩主となって、井伊直政の次に多い10万石を与えられました。

でも実は、家康は忠勝(高嶋政宏さん)に15万石与えたかったと言う話もあります。

 

結果、10万石で落ち着きましたが、忠勝の次男・忠朝に5万石が与えられました。

合計15万石!

 

1604年(慶長9年)

元服してから57の戦を経験したと言われる忠勝(高嶋政宏さん)は病気がちになり、家康に隠居したいと申し出ました。

でもなかなか隠居させてもらえませんでした。

 

1607年(慶長12年)

目を患います。

 

1609年(慶長14年)

61歳になった忠勝は、長男の忠政に家督を譲って、やっと隠居できました。

 

1610年(慶長15年)

自分の持ち物に名前を彫ろうとして、忠勝は小刀で指を怪我し、

 

「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」

と自ら呟き、しばらく後に亡くなりました。享年63歳でした。

 

破傷風とか、傷口から細菌に感染したのかもしれませんね。

 

因みに忠勝(高嶋政宏さん)の娘・小松姫は、真田信之(真田丸のお兄ちゃんの方)の正室です。

大河ドラマ『真田丸』では忠勝を演じていたのは藤岡弘さんでした。

『おんな城主直虎』では高嶋政宏さんが演じます。イメージの違いも楽しめそうですね♪

 

 

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